平らかなる共病記_アラフォー満喫中

胸腺がんと向き合う30代後半の日々

ネットの海には虎だらけ?山月記を久々に読んで…

中島敦の短編小説「山月記

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たぶん高校の授業で読んだ限りだと思うのですが、どーにも読みたくなったのです。

 

昨今、SNSを見る機会が圧倒的に増えています。スマホの影響が大きいのだろうとは思います。時間があるときついつい見ちゃいますからね。

で、特に短文(ツイッターやヤフーコメント)の『つぶやき』や『書き込み』を見ていて思うのが、多くの人が山月記の登場人物である李徴のように姿を変えてしまった「虎」になってるじゃないかと、ふと…感じるときがあります。

 

これだけだと何のこっちゃだと思うのですが、僕がそう感じた理由をツラツラ書いてみたいと思います。細かい解釈の間違いとかはスルーしていただけると・・・

 

山月記の登場人物『李徴(りちょう)』は若くして科挙に合格した人物で、今でいう地方公務員。でも自分のやりたいことはこんなことじゃないと退職して詩人になるという夢を追いかけます。まぁ挫折するわけですが…。

妻と子を養うためにまた職に戻るのですが、当時の同僚は出世していて、内心馬鹿にしていた連中の言うことを聞いて仕事をしないといけなくなった。我慢できなかったのでしょう・・・発狂して行方不明になります。そして「虎(人食虎=怪物)」に姿を変えてしまうのです。

そんな「虎」がいるところへ「李徴」の職場の同期であり、唯一といってもいい親友である「袁傪」が仕事で通りかかります。「袁傪」に襲いかかる「虎」でしたが、かろうじて「李徴」の心で踏みとどまります。そして2人はわずかな時間を共に過ごすのです。

李徴にはまだ人間の心が残っていました。いずれ失うかもしれないことを予見しながらもまだ「人」でありたいという意思が残っていたのだと僕は思います。

 

では、現代の人々、ネットを使うようになった『匿名』の人々はどうでしょうか?

一部の人は『匿名』という仮面をかぶって怪物に変身してしまっているのではないでしょうか?

そんなことを書き込みを見ていると感じてしまうことが多いのです。

他人の悪口書いたり、世の中への不平不満を罵詈雑言とともに吐き出したり、人を騙すようなウソを平気で書き込んだり…

SNSを使うとき、人の心はどこにいってしまうのか?それとも既に現実でも人の心を失いかけてしまっているのか…

 

例え姿を見せ合わなくても、李徴は袁傪が言葉を交わしたことでわずかな間でも人の心を取り戻せました。しかし、残念ながらネットの海ではそうはいかないのか…『匿名』という怪物は『虎』以上に恐ろしい怪物なのか…そんなことを考えてしまいます。

やっぱり人間はお互い思いやりをもって言葉を交わしてこそ人間でいられるのかなと、そんなうに思います。

 

そんなことに思いをはせた日曜日の朝でした。

人が『虎』になるのは白いマットのジャングルだけでお願いしたいところ。そして『匿名』になっても本当の名前を汚すような書き込み・つぶやきは少しでも控えてほしいところです。